みんなの3.11
どうもー!
まーさかり担いだ金太郎〜♪♪くーまに跨りマウントポジション♪♪
でお馴染みのわたくしです。
さて、本日は「3月11日」
あの震災から7年目を迎えた3.11です。
「忘れてはいけない、忘れちゃいけない」
そんな1日。
“あの日”のわたくしは何をして、何を思っていたのか…。
今日はその事をちょっと書いてみたいと思います。
2011年3月11日14時46分
「やべぇ、車がパンクしたかも!」
これが“あの日”わたくしが最初に感じた事です。
あの地震の1時間前、わたくしは東京に住む彼女と電話してました。
いつもの普通の日。
わたくしは、仕事の休憩中に読む本を買いに行く途中で震災に遭遇。
家の近くの信号のある交差点、尋常じゃない横揺れ、目の前の信号機やビニールハウスがうねる様に揺れてたのを記憶してます。
「ヤバい…。とりあえず家に帰らないと!」
車をバックさせる時もあの揺れは異常でした。
真っ直ぐバック出来ないんだもの。
家に着き、家族の安否、特に足腰が弱い祖父母の無事を確認。
幸いにも怪我は無く、無事でした。
とりあえず避難経路の玄関を開け、自室へ。
この段階で既に停電してましたね。
自室の片付けをしながらふと思いました。
「岩手は地震多いし、今回の大きな地震で停電したのは想定内。けどなんだろう…このヤバい感じ…。」
停電して情報も無い状態。
わたくしが“なんかヤバい”って思ったのは、「余震」
の強烈さ。
地震の避難経路の為に開けた部屋の窓。
2〜3分置きに静まりかえった外から聞こえる地響き。
地響きのすぐ後にまた激しい縦揺れ・横揺れ。
これをかれこれ2〜30分繰り返す。
わたくしが経験した事の無い地震。
後にも先にも、あの日が最初で最後の体験でしたね。
あの日、沿岸に仕事で行ってた弟。九死に一生、家から近い高速の出口で地震に遭遇。
家族全員が家に着き、本当に安心したのを覚えてます。
夕方になり、突然の大雪。
わたくしは仕事場の確認・母方の祖母の家の確認を済ませ、また家に戻りました。
帰りの道中、街灯すら点いて無い真っ暗な道。
真っ暗な街。
得体の知れな恐怖を感じました。
自宅で母親が付けるラジオの音。
頻繁になる緊急地震速報。
アナウンサーが喋る、
「陸前高田が無くなりました…。」
…全くもって意味が分からなかった。
情報が遮断され、まさか沿岸一帯があんな事になってるなんて夢にも思わなかった。
寒さの中、ラジオを聞くだけ。
停電したのは三日間。
あれだけ長く感じる三日間を過ごした事は忘れません。
三日目か四日目の夕方、電気が普及し、テレビの前に広がる地獄絵図…
これがわたくしの故郷なのか…
なんで?どうして?
状況を飲み込むのに時間がかかりました。
それからの数ヶ月、ガソリン不足・生活必需品不足etc.....
いろいろな経験をし、現在に至ります。
“あの日・あの時”、わたくし達は
「何を失い、何を得たのか」
毎年考える事が必要な事だと、わたくしは思います。
今日この日だけでも良いんです。
願わくば、この3.11という1日が、未来の子供たちやこれからの世代の人々に「教訓」という形で生かされ伝わればと思います。
改めて、7年前の今日、失われた哀しみや命に合掌。